大阪地方裁判所 昭和39年(わ)3972号 判決 1965年3月10日
被告人 松本富士男
大一五・七・二〇生 無職
主文
被告人を禁錮一年六月に処する。
未決勾留日数中五〇日を右刑に算入する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は昭和三九年一月二一日、大阪府公安委員会から第一種普通自動車運転免許証の交付を受け爾来自動車の運転に従事していたものであるところ、昭和三四年一一月二〇日、妻寿美子と結婚したが、勤務先で知り合つた女性と情交関係を持つたり、勤務先の会社の金員を無断で友人に貸し与えたことから退職したり、その後も勤務先の会社の金員を遊興費に費消してさらに退職するようになつたことなどから夫婦間も円満を欠き、昭和三九年六月下旬からは妻寿美子がその実姉宅へ出て別居し、同年七月二〇日同女から離婚の調停申立をされるようになつた。被告人は、調停の経過からみて妻がふたたび自己と夫婦生活を営む意思のないことを察知しながらも、再度同女と円満な家庭生活を持ちたいと念願していたが、同年九月二一日から腹痛を起したので、帰宅して看病してくれるように同女へ電話したところ同女が被告人の申し出に応ぜず、そのうえ同月二六日朝同女から被告人のもとへ帰る意思が全くない旨の連絡を受けたので、もはや同女とよりをもどすことはできないと考えるにつけ悲観のあまり生きる望みも失い、いつそのこと新婚旅行の思い出の地である和歌山県下白浜へ赴いて自殺しようと思いつめるに至つた。そこで被告人は、同日、被告人の看病に来ていた母親を送るため自己所有の普通乗用自動車を運転して京都府亀岡市河原林町所在の被告人の実姉山木久枝方へ赴き、その帰途同市内、大阪府三島郡三島町、大阪府吹田市各所在の薬局三軒で自殺の際に使用するつもりでカドロノツクス“アスタ”錠剤三錠入り一箱、ブロバリン錠剤三〇錠入り二箱、ブロバリン錠剤一〇〇錠入り一瓶をそれぞれ購入して帰宅した。そして同夜白浜へ赴いて自殺しようとの決意を固め、妻宛の遺書を書いた後同日午後九時過ぎ頃、大阪府吹田市大字山田上八六番地の自宅において、白浜へ赴く途中自殺の決意を翻えさないためにと考えて、右購入した催眠剤のうちカドロノツクス“アスタ”錠剤三錠とブロバリン錠剤二五錠位を右の亀岡市からの帰途購入した清酒二合のうち一合余りの清酒で二回に分けて服用し、同日午後九時三〇分頃、自己所有の普通乗用自動車(大五ゆ一一一五号)を運転して自宅附近から和歌山県下白浜方面へ向けて出発し、府道大阪高槻京都線を大阪市内へ向けて進行した。ところが同日午後九時四〇分頃、大阪府吹田市片山住友町二、二六〇番地先吹田高等学校前交差点において、宮田米造の運転する普通乗用自動車と、同日午後一〇時頃、大阪市東淀川区柴島町二七〇番地先路上において、南部四郎の運転する普通乗用自動車とそれぞれ接触事故を起し、右南部四郎の運転する自動車と接触事故を起してからは右催眠剤の服用と飲酒による自己の身体の異常に気づき、これから大阪市内へ入れば交通量も増え車の往来も頻繁となるから途中衝突事故を起すなどして到底白浜までは行き着けないと考え、また事故を避けたい気持もあつて、南部四郎の運転する自動車と接触事故を起した直後附近のガード下辺で自宅へ引き返すための方向転換をして右府道大阪高槻京都線の緩行車用道路を吹田市に向けて進行を開始し、その直後同市東淀川区浜町一六八番地先道路において、同道路側部コンクリート側壁に自己の運転する自動車の右側部を接触させたが、その頃は右催眠剤の服用および飲酒のため次第に意識朦朧の状態に陥つて到底正常な運転ができない状態となり、前方注視および適確な把手操作が不可能であつたのであるが、元来自動車運転者としては正常な運転を妨げる心神状態を齎らすおそれのある前記のような薬剤や酒類を運転に際して服用を慎み、さらに右のような心神状態になつたときは直ちに運転を中止して完全に覚醒するまで休養する等衝突事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、何とか無事に運転できるであろうとの考えのもとに漫然と走行を継続した過失により、同日午後一〇時四五分頃、府道大阪高槻京都線の大阪府吹田市寿町一丁目一番三号先路上にさしかかつた際、折柄同道路の反対方向から足踏み自転車に乗つて同道路左端(被告人の進行方向へ向つて)を進行して来た広畑建治(当時二〇年)に全く気づかず自己の運転する自動車を進行させて同人に自己の運転する車の左前部を衝突させて路上に転倒させ、よつて同人に対し頭部、顔面、下肢各打撲傷等の傷害を負わせ、翌九月二七日午前九時一〇分、同市南高浜町六番三九号済生会吹田病院において、右頭部打撲傷に基く頭蓋内血腫による脳圧迫ならびに脳挫傷脳腫脹による脳機能障害により死亡するに至らしめたものである。
(証拠の標目)(略)
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するので所定刑中禁錮刑を選択しその刑期範囲内で被告人を禁錮一年六月に処し、刑法二一条により未決勾留日数のうち五〇日を右刑に算入し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項本文により全部被告人に負担させることとする。
(本位的訴因である傷害致死罪を認めなかつた理由)
本位的訴因は要するに、被告人は、南部四郎の運転する自動車と接触事故を起した直後から、自己の服用した催眠薬の薬効のため意識が混濁した状態になつて到底正常な運転は望めず、そのまま運転を継続すれば自己の運転する自動車を通行人等に突きあてるなどの危害を与える危険性があることを認識しながら、これを意に介することなく敢えて運転を継続し、よつて被害者へ突きあてて傷害を負わせ死亡するに至らしめたのであるから、被告人の右所為は刑法二〇五条一項に該当するというのである。被告人が催眠薬を服用して自動車を運転し、南部四郎の運転する自動車と接触事故を起した直後頃から次第に意識が朦朧となり、そのまま運転を継続すれば事故を起して人に傷害を負わせるかも知れないことを認識しながら、敢えて運転を継続して本件事故を発生せしめたことについては争いなく、またこの事実は前掲各証拠に照らしても認めることができる。
ところで、故意行為であるためには、具体的な犯罪事実発生の危険性を表象し、そしてその結果発生を認容することを要する。これを本件についてみると、被告人が事故を起す危険性のあることを認識しながら運転を継続したといつても、被害者を現実に認識したわけでもなく、また市街地のように交通頻繁でもなかつたことであるからして、それは未だ具体的な犯罪事実発生の危険性の認識ということはできず、どこかで事故を起すかも知れないといつた抽象的な危険性の認識にすぎなかつたものと認められる。他方被告人は南部四郎の運転する自動車と接触事故を起した直後自宅へ引き返すべく方向転換しているのであるが、それは主にはそのままでは到底白浜まで行き着けないと考えたためではあるけれども、そのことは白浜でこそ死にたいと考えてはいたが、それ以外の場所で交通事故などにより死ぬことは欲していなかつたからにほかならないからであろう。
そもそも、自己の運転する車が、大型のダンプカーや貨物自動車等極めて堅固な車であるとか、その通行予定の道路が主として人や自転車等自己の車よりも遥かに脆弱な人車の通行する地域であるならばともかく、本件のように、主として自己の車と同等以上の堅固さをもつ車の往来する道路である場合(本件はたまたま自転車という脆弱な車と衝突したのであるが、それは、本件道路の交通事情に鑑み極めて確率の小さかつた事柄に属する。)には、衝突事故を起すということは、自分もまた死傷することを意味するのであるから、被告人が交通事故による自己の死傷をも認容していたと認められない限り、被告人が事故を起す危険性のあることを認識しながら敢えて運転を継続したからといつて、直ちにそれを認容したとまでは推認し難い。そして、被告人は、当公判廷において、コンクリート壁に接触した直後頃から意識が朦朧として来たけれども自宅へならなんとか帰れると思つた旨供述しているが、その地点から自宅までの距離および当裁判所の検証調書により認められる交通量(吹田橋を過ぎて吹田市に入ると交通量は急激に減少する)ならびに思考力の減退した当時の心神の状態およびとにかく折返し地点から事故地点までの可成りの距離を無事に運転して来た事実等を合せ考えると、それもあながち不自然とはいえない。
以上により被告人には暴行の未必の故意を認めるにはなお証明不十分というべきであり、従つて傷害致死罪の罪責を負わせることはできない。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 石原武夫 森岡茂 新崎長政)